「想定」のあり方と、事故がもたらす世間の悪影響。

「想定外」と「想定内」をどう考えるか、どう線引きするか・・

あらゆる事故に際しては大変デリケートな事柄であって、

突き詰めれば突き詰めるほど本来難しい定義。

とりわけ自然や気象が背景要素に大きく関わる場合、尚更である。

尚更であるからこそ、より慎重性を要するという絶対的な概念の一方で、

各々の分野の重要性やあり方とどのようにバランスが取られているか、取るべきか・・

そこを立体的に考察するべきだろうし、そうでなければその分野の安全スキルの発展は勿論、

産業や取り巻く文化的側面、関連する様々な事柄を、不適切な形で縮小や消滅へ

追い込んでしまう危険性を孕んでいるからだ。

「想定内外」について真っ先に思い浮かぶのは、先の原発事故だろう。

これに関しては、一度の事故による影響が空前のスケールに及ぶために、

様々な現存分野を考えた時、おそらくは1〜2を争うほど厳格に厳格を重ねていないと

ならないのは至極当然である。

にもかかわらず、蓋を開けてみると実態は、信じられないほど杜撰であったわけで、

それ以上には、事前に危険性についての指摘があったにもかかわらず、

その懸念はないとして対策を怠ったという明確な『瑕疵・怠慢』があったゆえに、

「想定外だった」とすることが受容されないのは周知の通りだ。

一方の本件。

過酷な自然を相手にすることが基本で、応用も帰結もおよそ全てが自然との対峙に終止する・・

といってよい登山という分野を考えた時、どこまでを想定内とし、

どこから想定外とするかの基準は、山や地形要素にあるランダムでデリケートな地勢要件と、

変化が著しい気象要件という大まかな要素を含めれば、緻密な基準を敷くのは

技術の発達した現代でも未だ相当難しく、積み上がっている数々の知見を用いても尚、

充分であるとするには届きづらいといってよい。

その反面、登山分野への参加基準・要件は、数ある自然レジャー分野と比較して

そのハードルは相当程度高いだろう・・とざっくり解されているものの、

マリンスポーツにある船舶免許や、スカイスポーツにある種々資格等と比較すると、

管轄管理の有り様と実態とを相対比較すれば、案外緩い面や穴があるという見方が出来得る。

その“土台”の上に山岳レジャーがあり発展している・・という実態を考えるなら、

それだけの「不安定さ」ゆえに、尚更の慎重さや高い想定を課さねばならない・・とする理屈と、

対して、そのような不安定さを長期間是正出来ずに登山レジャーが存在している故に、

参加における各自の想定設定は幅が出ていても当然で、正確性を満遍なく統一するのは

元来「限界があるものだ」という理屈も成立する。

この有り様を横置きし、ただ漠然と「冬山だから危険に決まっている」、

「雪があるうちは冬山だろうが春山だろうが同じ危険に変わりはない」

「にもかかわらず事故が起きるなら即ち瑕疵であり、怠慢だ」「そもそも山に入ることが問題だ」

といったような理屈・見解は、安全工学の概念性になぞらえていく時、

それは些か粗雑な論調でもある。

本件ではここまで、僅かの時間内で表出する事故の概要や内情、

そしてこの会見で示された事実関係の一部だけを持ってして、

全てを裁定することは無理があるが、それでも尚無理矢理瑕疵の程度を考察するなら、

記事にある所の「無線」や「ビーコン」等の装備や用い方の部分に難があった・・

と一部伺うことが出来ようが、しかしその部分的要素は、更に精査すれば

各々の更なる背景要素と、場面ごとの経緯や参加者内における意思疎通面、連帯度合い等々、

つぶさな要件を練り込んでいかないと、果たしてその装備が適切だったのか否かや、

ロケーション選択の是非に至るまでは一概に言い切れないもの・・というのが

安全工学を基にした考え方である。

他方で・・。

本来の事故調査は、何が原因で事故が起こったか・・直接の当事者における

人為的な要因なのか、間接的な人間に起因するのか、あるいはテクニカルな要因なのか、

はたまた不可抗力なのか、それとも・・。

調査するにあたっては、何らの断定や心理的疑念要素を排し、限りなく平坦に粛々と、

淡々と事実関係や事故のメカニズムを解明・解析することが絶対条件である。

そのメカニズムが明らかになった上で、ではどういう手段や方法を取っていれば、

どういう判断があったなら事故が防げたのか否か・・または、最小限で食い止められたのか。

それを考察・検討することが次のステージである。

その上で、実際の事故に関係する当事者や間接的人物に拠る、あらゆる判断や手法、

資質等に何か要因があったのかどうか。あったなら、それは不可抗力の領域なのか、

あるいは一定程度までは出来得ていたものの、ある段階から行き届かなかったのか、

はたまた初期段階から「怠慢」や、そこから派生する重大なミス・過失に応分の多くがあるのか。

そこまで緻密に割り出していかねばならないのであって、人為的な側面というのは、

実のところ、中途ないしは後半部分で初めて精査するのが本来のあり方だ。

にもかかわらず、毎度様々な事故が発生すると、当初から「誰に責任がありそうか」という、

いわゆる『人為的側面→犯人探し』に重きを置き、恒例の如く“祭り”が始まる。

運輸事故関連だと、航空機事故にあるように、国交省管轄の「事故調」が立ち上がり、

舵取りすることが少なくない。とりわけ航空機事故は、背景要素にあるものが特殊ゆえ、

専門機関によって緻密に行うことが「国際標準」になっている側面が強く、

常識化に至っているが、それ以外のものは大半が「警察司法」に委ねられる事が多い。

ここに、「犯人探し」の風潮の根本要因がある。

それには、警察機関は最初から「業務上過失」を念頭に置くからであり、

これ即ち「誰に責任があるか」に重きを置いていることの証左で、

立件することを前提にして、責任処遇を決め打つという「フォーマット」に沿うからだ。

なので、大半の事故は誰か彼かを過失責任者とし、行政処分化される。

この流れだと、調査するにあたっての当事者や関連人物は、

「自分に何らかの責任が及んでしまうのではないか」という恐怖感や不安によって、

時に実直な証言や協力を阻害する、阻んでしまう懸念が生ずる。

これでは、本当の事故原因調査はもとより、以後に向けた正しく精度の高い安全策の構築や、

事故防止における健全な仕組み、啓蒙等に行き届かない。

その点で本件にて、では誰がどの機関が取り仕切るのが適切なのか、

その正しい答えは即答し難いも、山岳専門見地が相当程度入って平坦に調査分析することが、

何よりも重要なはずだろう。

そしてもう一つ、世間の空気は「犯人が定まった段階で溜飲が下がり、一件落着化」する。

これが最もマズく恐ろしいことで、安全向上に対しての思考停止が起こるからだ。

ひいては、各分野への参入や参加意思の阻害を招き、萎縮化させる。

言うなれば「だったらもう最初からやらない方が無難だ」という風潮を招いてしまう。

よって、「犯人ありき、犯人探し」は、広範に渡ってデメリットをもたらしてしまうのである。

翻って本件ではどうか。

やはり例外なく、既にその風潮がここでも観られる。

無論、犠牲者が未成年学生であり、教育上で起きた事故ゆえに、

大人教育者・機関に対する一層の責務、責任度合いが自ずと高まることは

避けられないことであるとしても・・。

しかし、犠牲になった生徒達や遺族らの心情を慮った時、その犠牲が後の安全向上や、

山岳登山分野への健全な理解と発展、教育上における今後の良好な環境構築に

寄与・発展する礎になるとするならば、寧ろ積極的かつ適切にこの事故を見つめることが、

何より求められるはずだ。

誰かを叩き打ちのめし、葬り去れば犠牲者は、遺族らは満足するのかどうか・・

そこをよくよく考えねばならないだろう。

■雪崩の対処法教えず=引率教諭「絶対安全と判断」―8人死亡で謝罪・栃木

(時事通信社 - 03月29日 18:01)