幸せの話。

えっと、Twitterとかで結婚だけが幸せじゃないとかってのが話題になってたけど、

そこに飛び込んでゆきたくないけど、自分の考えを書いておきたくなったので。

まず、幸せというのは個々人の持つ「感情」「感覚」なのだから

「状態」である既婚・未婚・子供がいる事とは直接的な関係がないと思っている。

つまり、収入とか既婚・未婚とか、社会的地位というのは、

幸せに多少なりの影響を与えるだろうけれども、

そもそも幸せを感じる能力・才能を持っていない人間、

幸せを感じるための訓練を積んでいない人間は、

「幸せだと感じることができない」「幸せを認識できない」ということだ。

では、幸せって何でしょうか? どのような訓練が必要でしょうか?

えっと、これまた自分の考えで恐縮だけれども、

自分の「基準」をもとに「物事の良い点を認識できるか」という

ところにあるんじゃないかと思う。

つまり、今ある状況よりも物事がよくなる、

今ある状況が守られる時に沸く感情を幸せだと考えている訳さね。

この考えで肝になるのが「基準」という物だ。

その基準は個々人の持ち物で人によって異なる。

物を知らなければ、そもそも基準があいまいになるので幸せを認識できなくなるし、

知識が先行して世の中がつまらなく見えている人は幸せを感じられなくなる。

これを書こうと思ったきっかけのTwitterで言えば「好きなことをする」という

基準によって、それ以外の幸せの可能性が閉ざされていて、

違う形の幸せの基準を持っている人を「ジジイ」「ババア」など

見下した言い方、言葉で害悪だと言わんばかりに描いている。

まあ、この人が何を基準にしていてもいいし、

どんな幸せを求めていてもいいんだけど、公の場であるTwitter上で

その様な言い方をする人間が幸せについて語るのはどうなのだろう?

これが差別の類であると認識できない人の基準に価値はあるの?

俺がそのTwitterに対して、Twitterに意見を返さないのは、

「公の場であるネット上」「誰でも見られるTwitter上」で、

「ジジイ」「ババア」の様な他者を見下した言い方をしていたり、

他者の基準を害悪であるかのようなレッテル張りをする様な人とは

言葉を交える価値もないと考えたからだ。物を表現する上のリテラシーの問題。

こういう考えの人は、平気で他者の幸せの基準を踏みにじるのに、

それに気が付かず自分が被害者であるかのように思い込むから近づきたくない。

何よりもめんどくさい。本当にめんどくさい。

まとめとしてもう一度書くけれど、幸せは感情・感覚であって、

幸せだと感じたいのであれば能力・才能・訓練が必須だ。

手っ取り早く幸せ風の何かを感じるために「何かに依存する方法」もあるけれど、

それは依存先が失われたり、依存から覚めた時に

次の依存先を見つけられなかった場合、本当に悲惨なことになる。

おおむね自業自得なのだけれども…。

まあ、幸せを感じるための能力・才能・訓練については書く気は全くないので、

この日記は内容の無い、ただの戯言の類だ。

読み飛ばしていただいて一向にかまわないと、最後に書くという罠をしかけてみたw

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